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私の太極拳

東京陳式太極拳倶楽部が目指すもの その一

 代表:鎗田勝司  
 
 太極拳というと日本では健康体操の一つとして定着しており、最近ではどこのスポーツクラブや自治体のスポーツセンターでも人気プログラムのひとつとなっている。もちろんなかには太極拳の持っている本来の武術的な側面を追求し、技(用法)を習い、いわゆる武術として太極拳をやる人たちもおり、そのような人たちの中には、散手や自由推手の練習をし、競技として太極拳の実戦性を追求している人たちもいる。また、最近の表演試合の出場者のように、伝統の型にさらに難度の高い動作を加え、スポーツとしてその身体能力、表現力などを競い合う選手たちもいる。このように太極拳は、老若男女がさまざまに楽しむことができる、古くて新しい身体運動として、着実に日本において根付いた感がある。  私は太極拳、主に陳家溝の太極拳を25年ほど練習してきた。そのほかにもいくつかの伝統の中国武術を学習してきたし、過去には表演の試合にも10年以上続けて出場した経験もある。このように日本において長きに渡って中国武術を練習してきた私はしばしば感じることがある。それは、套路練習中心の日本の中国武術界においては、套路がうまい人がイコール、武術がうまい人、と同義語に扱われる傾向がある、ということである。しかしながら私はこの意見には、武術の一つの側面ですべてを判断するようで、どうも同調できないのだ。なぜなら私が中国武術一筋に練習してきて思うことは、“套路がうまく演じられる”ということと、それを“武術として使う”ということは必ずしもイコールではなく、むしろ套路をやりこめばやりこむほど、この二つのことを車の両輪のように、一致させていくが大変重要ではないかと思えてきたからである。そしてこのことの「キー」になるのが、「護身(心)術としての武術」ということではないか、と思うのだ。いうなれば「専守防衛」の考え方をもった武術を学ぶ、ということである。このことにこそ套路と実践をつなぐ鍵があるのではないかと私は思えてきたのである。  こんなことは、ある人たちにとっては、あたりまえの考え方なのかもしれない。「太極拳はもともと武術なのだから、相手がこうきたら、こう受け攻撃する、だれでも套路の意味と推手の使い方ぐらい習っているよ。」このような声が当然聞こえてきそうである。しかしながら繰り返し述べるが、型がうまい、表演で優勝する人、が実際に強いわけではないことはいうまでもないし、用法を知っているだけでは実際には使えないこともまた真実なのである。逆に型を疎かにしてただ組手が強いというのでは、喧嘩はできるが武術がうまいとは決していえないのでないだろうか。それでは武術として套路を練習する意味とは何なのか。またその方法は?ここで私は護身術としての太極拳をやる今日的な意味について私なりに少し述べてみたい。  太極拳に限らず中国の武術を格闘技としてやっていく、つまり散手(打)や推手の試合に参加するのは、日々練習している套路や対人練習の成果を試したい、自分がどれだけ強くなったか確かめたい、という練拳者の自然な欲求から生まれる行為であろう。しかし、競技としてやるには、どうしてもそこにルールが必要であり、実際に習う技をそのまま使うわけにはいかない。試合や組手に単に強くなるのなら、使える技と体力づくりの練習を重点的に練習せざるをない。そうなると使える技と習った用法とのギャップがどうしても生じてしまう。また、技も制約されるので必要な状況に応じた変化技も限られ、武術における本来の臨機応変さが失われる恐れがあるのではないかと、私は考える。実はこの状況に応じた臨機応変さこそ、太極拳に限らず武術の本質なのではないかと私は思うのであり、現状戦争こそ行なわれてはいないが、決して安全だとはいえない今日の日本において、老若男女が、できるだけ自分の能力を使って身を守る「護身術としての太極拳」を学ぶ意義もここにあるのではないかと私は考えるのだ。つまり、「護身術」としての武術は現代における武術の存在意義の一つだと私は思うし、普段健康法の一つとしてやっている太極拳をもう一歩すすめて深めてみるきっかけになるのではないかと思うのである。「護身術」としての練習は、目的が健康法でもなんの妨げにならないどころか、より技を覚えやすくし、型の理解を深め、套路練習をより楽しくしてくれるのである。競技として武術をやることでもそれに近い能力を身につけることができるのはもちろんであるが、すべての人が競技者としての練習ができるわけではないことはいうまでもない。